公共性・身体知・空間論

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公共性・身体知・空間論

kw+hg architects代表 比嘉 武彦 × WIAD 大林 寛

建築によって「公共性」をどうつくるか

大林:
武蔵野プレイスの設計についてお伺いして、「ルーム」は子宮がモチーフになっているんじゃないかと思いました。「丸み」「包み込む」「乳化」といったキーワードもありましたし、何か女性的なものをコンセプトにされてるんでしょうか?

比嘉:
女性的なものという意識は全くありませんでしたが、身体を包み込む空間を考えているうちに、だんだん丸くなってきたという感じです。身体から切り離されたニュートラルなものとして空間を考えるのではなく、身体の外延としてとらえていった結果かもしれません。身体から等距離に空間を仮定していくと、丸くなってきますよね。そうやって居心地のよさというものを生み出せないか考えていました。
武蔵野プレイスを居心地のいい場所にしたかったのは、滞在時間を延ばして、セレンディピティの可能性を高めるためです。駅のような忙しない場所では起きないことが、まったりと速度を落とすことで実現されると思っていました。リラックスした場所の方が恋が芽生えやすいというわけです(笑)。
「公共性」というものは、実はそういう浮遊状態のようなものじゃないかと。それを理念ではなく、消費やスペクタクルでもなく、空間の問題ととらえて、公共建築としてやってみたかった。そういえば、デモクラシーが生まれた場所とされるギリシアの岩山に行くと、浮遊感が感じられるそうですよ。

大林:
浮遊状態ですか。何かモダニズムに対する批判的なアプローチとも解釈できそうですね。

比嘉:
そうですね。モダニズム的な機能主義とはだいぶ異なった考えかもしれません。ほとんど建築を情念処理メカニズムとしてとらえているようなものですから。それは同時に、現在のアクティビティ優先主義とも違っているでしょうね。

大林:
アクティビティ優先主義について、くわしく教えていただけますか。

比嘉:
最近の建築の傾向として感じていることですが、極端に言えば、建築は必要なくて、人のアクティビティだけがあればいいということです。むしろ建築は消えるべきだと。皆さんの活動がすべてで、建築はそれをサポートするだけなんですというような。これは建築が箱モノとして攻撃されることに対する、ポリティカルコレクトネスな語り口でもあるわけですが、そうなると究極的に建築は、すべてワークショップによってつくられるべきということになっていくのかもしれません。

大林:
ワークショップを利用すると、比嘉さんが言われていたような全世代的な参画が難しくなってしまうんでしょうか。われわれの業界でも、参加型プロセスとしてワークショップは広く使われていて、合意形成にとても有効ですが、ますます設計者自身がしっかり意志を持たなきゃいけないとも感じています。

比嘉:
ワークショップには設計者としての気づきを得られる発見性がありますが、一方で常にサイレントマジョリティや未来のステークホルダーには届いていないのではないかという懸念もつきまといます。結果的に、意識の高い人だけが集まる公共施設になってしまう原因ともなり得るのではないか。それは本当にデモクラティックなのか。誤解を承知で言えば、私たちは意識の高い部分だけじゃなくて、意識の低さのようなものが必要なのではないかと。
武蔵野プレイスの場合は、突然の市長交代や市政始まって以来の予算否決とか、翻弄されるような政治プロセスのおかげで、時間がかかったことがむしろプラスにはたらきましたが、いずれにしても今のようなワークショップのやり方とは違うシステムをデザインする必要があると思うんです。しかしそれでも仮にそういったことが完璧に行われたとしても、建築が立ち上がるときの唐突さというか、極端な言い方をすれば暴力性のようなものはなくなりませんし、ここには注視し続ける必要があると思います。

大林:
暴力性はアーキテクチャにあらかじめ内包されている気がしますね。

比嘉:
内包されているし、不可避的だと思います。それはアクティビティから語っていても、なかなか建築にたどりつかないということに関係しているような気がします。常に両義的で良い悪いの問題でもない。それを解消することがいいとも思えない。

村越(WIAD ローカルコーディネーター):
それに対するひとつのアプローチが、藤村龍至さんの超線形プロセス *1 のような気がしますが、結局サイレントマジョリティにどう工程を示していくかという問題は残ります。すこし前に建築の「設計のプロセス展」*2 を見たのですが、いくらプロセスの全行程をすべて記録していたとしても、アイデアによる突然変異を許容しているので、モックアップも急にかたちが変わったりしてました。デモクラティックに設計をすることの難しさと少し関連があるのかなと思いました。

比嘉:
展示を拝見していないので何とも言えませんが、その突然変異の間にある説明不可能な部分こそが、実は人に対して潜在的に大きな影響を与えるような気もしますね。

大林:
それは本人にも説明不可能ですよね。

比嘉:
もちろん手続き論としては有効なんだと思います。「市民」が参加して納得してもらったという事実をつくることによって、正当性を得るということですよね。確かにそれは行政側にとっても望ましいプロセスでしょう。
しかし、武蔵野プレイスでもさまざな市民参加の手法を取り入れていますが、本来は、ワークショップのようなものは、建築云々以前の、何をつくるのかを決めるためのバジェットの段階で行われるべきじゃないかといつも思っていました。こっちについては行政は嫌がるでしょうけどね。公式的なプロセス以外にも、呼ばれた市民集会には全て参加していたのですが、そこで痛烈な批判を受けるのはそもそもバジェットの問題に起因することが多かった。そうなるとワークショップも何もあったもんじゃないという話になってしまいます。建築に対して拒否反応があるとすれば、実はこっちの方が大きい。あの頃はほんとにきつかったですね(笑)。

「公共性」のアーキテクチャ再考

大林:
ワークショップで起こりえる偏りは、公共空間が抱える問題そのものな気がします。しかし比嘉さんが武蔵野プレイスで目指したのは、全世代的な市民をバラバラなまま共存させることでした。最近では切断論も再評価されていますが、きっとソーシャルにつながりすぎた後の、その次に考えるべきことなんだと感じています。

比嘉:
みんなソーシャルなネットワークで多様につながっているようですけど、そのつながり自体の画一性は高まっていて、実は全体性には何も及ぼしていないように思います。あるつながりと別のつながりには、はっきりと分断がある。しかし一方で、バラバラに活動していながらも、物理的に空間を共有するということには可能性を感じています。他者のざわめきのなかに居るということには、何かしらポジティブなはたらきがあります。カフェで仕事をするといいアイデアを思いつくといったことに関係する、偶発的な可能世界の開かれのようなもの。武蔵野プレイスでは、こういったことを公共建築としてつくり上げたかった。

大林:
場所性が加わることで関係が変わり、それが利用者の活動に影響を与えるということですね。確かに情報空間を介した遍在的な社会では、どんなつながりのなかの意見も、他のつながりの層からは見えにくいように思います。タイムラインのようなアーキテクチャでは、しっかりした足場を構築することが難しい。またつながりとつながりが分断されているから、自分たちがいない場所で中心化が起きているように感じる。しかも中心はどこにあるかわからない上に、知らないうちにできているので、どこのつながりからの声も届きにくい。だからバラバラな状態のまま、総体としては均質化しているような印象を受けるんだと思います。

比嘉:
これをタイムライン的「公共性」と言ってもいいかもしれませんね。それぞれに私的な想像の「公共性」というか。ところで公共施設をリサーチしているときに気づいたのは、こうした同時代的な分断だけではなく、歴史的にも分断があるということでした。日本は明治期に一気に西欧のシステムを取り入れましたが、それは西欧市民社会のようにボトムアップで勝ち取られたものではなく、突然「あなたたちは明日から市民です。市民とはこういうもので…」といった具合に、上から決められたものですよね。社会とか公共とか個人という言葉も、確かその頃に導入されたはず。
さらに戦後にも大きな分断線があって、社会教育などの理念はそのあたりから始まっていると思います。そのときのリベラルで啓蒙的な規範性は今の公共施設においても形骸化して残っていて、それがユーザーの偏りにつながっているような気がします。
しかし現実的には、日本の「公共性」は西洋とまったく違う構造をしています。西洋では、まず自由な個人がいて、それをベースに民主主義があって、その総体が社会なわけです。ところが日本では、個人よりもまず集団あるいは家というものがあって、それが大きくなって村になって、さらに大きくなって国になっていくような構造です。日本のパブリックとは大きな家、つまり公(おおやけ)ということになります。だから最終的にはスケールの問題になって、集団が大きい方が公になる。空気というのもおそらくそうやって生まれています。
西洋のパブリックとプライベートは対立概念ですが、日本はパブリックとプライベートが地続きで入れ子状になった包摂概念なんですね。そういう構造をそのまま残して西欧的なリベラリズムが上書きされた状態なんだと思います。

大林:
そう言われて気が付いたのですが、武蔵野プレイス自体が包摂概念のような入れ子構造になっていますよね。これは日本的な「公共性」を意識されてのことだったのでしょうか。

比嘉:
かなり漠然とですが、そういうことを否定すべきではなく、むしろそこから出発するしかないのではないかとは考えていました。建築家はよくハーバーマスやアーレント *3 を参照しますが、せめて「無縁・公界・楽」からはじめようと(笑)。江湖 *4 とか。
理念的な広場よりも、楽市楽座じゃないけど、もっとちまちました場が寄り集まった方が、みんな落ち着くんだと思うんです(笑)。それを階層的な入れ子ではなく、並列性を維持したまま同時に存在させる仕組みをつくることで、自律的な「公共状態」を生成できないかというわけです。
自分たちの社会は、もはや血縁でも地縁でもなく、たまたま居合わせた偶然のコミュニティみたいなものですが、そういうことを前向きにとらえる必要がある。逆に言えば、十分な偶然性を確保した方が「公共性」が生まれるように思うんです。それを「場縁」と呼んだりもしているのですが。

シミュレーション空間の「身体性」

大林:
情報アーキテクチャを考える上でも、「公共性」の問題は避けて通れません。しかもその問題は、情報空間のアーキテクチャを輸入してインフラとして使っているところから、始まっています。
また先ほどのアクティビティ優先の考え方も、情報アーキテクチャの構築プロセスにおいて、実践されていることに似ていました。ほとんど疑いもなく、アクティビティが優位になっています。

比嘉:
面白いことにアクティビティを精緻に考えるよりも、別の目的でつくられたものを転用したぐらいの方が、いい建築になることが多いんです。計画に伴う拘束性が取り払われている方が、利用する側は気が楽なのかもしれませんね。アクティビティにあつらえてつくられたわけではないので、普通に考えて使いにくいはずなのですが、そのあたりはむしろポジティブなものになることが多い。そこらへんが建築の面白いところですね。

大林:
なるほど。先ほどの説明不可能性に通じるものがありますね。

比嘉:
そうですね。やはり人はアクティビティが先にあるのではなく、場によって生成される面が実際は大きいんでしょうね。古い建物を転用するといい感じになることが多いのは、空間と身体の関係が多重化されて隙間が生まれ、寛容な気分になれるからだと思います。武蔵野プレイスでは、自分が何をしたいのかわからないけど、ここにやって来てしまうという人が多いそうです。空間と身体との間で、無意識レベルのコミュニケーションが行われているのかもしれません。建築はこうして真綿で締めるようにじわっとやって来ます(笑) 。武蔵野プレイスでは、そうやってまずは人を引き付けた上で、事後的にアクティビティが生まれるという、倒置的な期待がありました。

大林:
建築とアクティビティの関係について、なんとなくわかってきました。
一方の情報アーキテクチャでは、まず情報にちゃんとアクセスできて、理解され使われることに、価値が置かれています。これは情報空間における商業文化から高まった価値で、利用者のアクティビティを中心に考えられていった結果です。またこうした実装に一般化が求められていることを考えると、今がモダニズム的状況なのは間違いないでしょう。そのうち情報空間にも多様な価値が求められるようになると思いますが、アーキテクチャが整備され、その使われ方がある程度統合されるまで、この状況は続くと予想されます。

比嘉:
建築にできなくて情報空間にできることがあるなら、それは時間的な積層ですよね。武蔵野プレイスでもミニコンサートが行われたり、アーティストが壁画を描いたりしているのですが、いくら濃密な活動があったとしても、次の日になれば物理空間には何も残っていません。しかし情報空間ならログとしてコンパイルできます。
しかしその一方で、建築における物理空間の体験は、身体を媒介としているので、情報空間でなかなか再現できないと思いますが。

大林:
情報空間らしい「身体性」は、瞬間的な感覚や認知ではなくて、継続的なインタラクションにあると思っています。物理空間や他のメディアにおいても、取り込まれるという感覚はありますが、インタラクションによる没入性とは明らかに違います。きっとコミュニケーションがシミュレートされることで、メディアと何らかの関係が結ばれてしまうんだと思います。それによって使用感が喪失されたり、身体的な影響が生じるわけです。

比嘉:
そうやってシミュレーションの解像度が高くなると、現実世界を変容させてしまうんでしょうか。たしかにソチ・オリンピックのセレモニーをモニターで見て体験するかぎり、建築は必要ないのかもしれないと思いました。アイスリンクに精度の高い映像がプロジェクションされることで、ほとんど成り立っている世界でしたので。
そこで気になるのは、人の知覚を統合しているはずの身体の問題です。武蔵野プレイスでは、空間の経験を多重化していくことで新しい感覚をつくり出そうとしてますが、そういったこともシミュレート可能になってくるのでしょうか。

大林:
問題になるのは、人が何をリアルと感じるかだと思います。まずは現実世界のリアリティを情報空間に持ち込んでシミュレートすることから始まって、次に情報空間の側で新しいリアリティが生まれます。最近だとタッチパネルが、平面のインタラクションにより水平方向に秩序が働いて、スライドの動作が中心になったり、表示される部品がフラットになったりしました。これは情報空間のリアリティに後押しされた結果だと思います。
またソーシャルメディアに疲れてしまう人が多いのも、そこに感じるリアリティが息苦しいからですよね。その後、現実世界に戻っても、現実の方のリアリティもアップデートされているので、後戻りできるわけではありません。
つまり情報空間では、新しい秩序が技術決定論的にできていって、あとから人が使いながら常識ができあがっていきます。今後もこのように、情報空間と物理空間を行ったり来たりしながら、使う人が選択するリアリティによって、秩序や倫理といったものが統合されていくのではないでしょうか。確信が持てるのは、情報空間の影響によって、物理空間の場所性や一回性といった価値が高まっていくということですね。

比嘉:
そうやって情報空間は、ますます物理空間に相互貫入していくんでしょうね。しかしコミュニケーションにおいて交換不可能なはずの「身体性」が崩れてくると、大きなインパクトがあるんじゃないかと思います。

大林:
先ほどのリアリティの問題とは別に、情報アーキテクチャも「身体性」を前提にして語られるべきだと考えています。建築のようなはっきりとした物理空間では、自分の身体を意識しやすいですが、情報空間のインターフェイスは、今のところモニター画面がほとんどです。そうすると設計者も、平面のレイアウトをどうつくるかという考えに陥りやすく、空間的にはせいぜい概念的な奥行きとして情報構造を捉えるぐらいです。何かと「身体性」は忘れられがちになる。
しかし使うのが人間である限り、「身体性」からは逃れられません。いくらインタラクションに没入できても、われわれの身体は交換不可能で、腹が減ると死にそうになりますから(笑)。その根本的な部分は、建築などの物理空間における体験と変わりないんです。だからやはりリアリティと感じるものとリアルは違っていて、リアルはいつも身体の側にあるわけです。

物理空間の情報アーキテクチャ

比嘉:
情報空間の話からはすこし逸れるかもしれないですが、武蔵野プレイスには掲示板があって、そこにクレームなんかも貼り出されています。通常の公共施設では、激しい抗議の電話をかけてくるような人の声が大きくなりがちですが、そこはオープンにやっているので、意見が相対化されるんです。たとえば文句をつけているのが、ある世代ばかりなのがわかってしまったり(笑)。またそうした意見に対して、若い人たちが「そんなことない」と反論したりしています。こういったことが起きるのは、紙を使っているのが大きいと思っています。パソコンを使わない世代が利用できますし、書いてある字の調子も確認できたりするので。

大林:
それは情報アーキテクチャですね。筆跡から読み取れる情報量は非常に多いですし。

比嘉:
他にも、実現しなかった別の案件ですが、ある公共施設に15メートルぐらいの大きさの掲示板を設置することを提案したことがあります。そこに告知のようなパブリックなものから、「フランス語教えます」とか「うちの猫を探しています」といった私的なものまで、情報が完全に並置されるシステムを考えていました。そうすれば、刻々と変化する地域社会のリアルな姿が、参画可能な無数の切口を伴って、具体的に立ち現れるんじゃないかと。

大林:
オンラインからも掲示板が閲覧できるようにして、書き込みは物理空間でしかできないようにすれば、おもしろいかもしれません。利用者が姿を晒さないといけないことで、行動に明確な意志が必要になり、程よいリスクが設定される気がします。こういった話に、物理空間と情報空間を融合させる意義を強く感じますね。

比嘉:
オンラインの書き込みにノイズが多いのは、やはり参入障壁が低いからなんでしょうね。物理空間の掲示板だと、書き込むのに労力がかかるわけですし、自分が相対化されることで、もうちょっとクールになれるかもしれません。

村越:
参入障壁が低いままでリスクを取ろうとして、情報をサイロ化させることが、昨今の炎上につながっているんじゃないかと思います。さらに炎上案件の多くは、質と量のバランスが正しくなくて、大したことないのに過敏に反応しているように見えます。だから先ほどの掲示板のように、クレームを可視化すると、書き込みに自浄作用が働く気がします。相対化せずに、一対多と見てしまい、一の自分の絶対的判断によって価値観が設定されてしまうような感覚があるように思うんです。

大林:
セカイ系 *5 ですよね(笑)。セカイ系はインターネット的感覚なんでしょうね。
さて今回の比嘉さんのお話は、情報アーキテクチャの関係者にとっても、多くのヒントがあったと思います。今後も建築と情報アーキテクチャを融合させていく方向で、いろいろとご協力させていただきたいです。

比嘉:
はい。ぜひ何か一緒にやりましょう。


*1 超線形設計プロセス。建築家の藤村龍至氏によって提唱された設計プロセス論。設計条件をひとつずつ定義しながら「ジャンプしない」「枝分かれしない」「後戻りしない」を原則とする。
*2 GA JAPAN 2013 設計のプロセス展
*3 ユルゲン・ハーバーマスハンナ・アーレントは共にドイツの政治哲学者で、「公共性」を問題にした。
*4 日本史家の東島誠氏が著書『公共圏の歴史的創造』等で見出した日本独自の公共概念。
*5 Wikipedia: セカイ系

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